飾ることの違和感
ふと思い出したことを確認のために綴ってみようという話です。
幼い頃、それこそ初めてモノを自分の手で作り終えた時に感じた違和感の話。
記憶にある中で、初めて作ってみたモノはウルトラマンのβカプセルでした。紙粘土に絵の具を塗りたくって、我ながら惚れ惚れしていたものです。
完成したそれを眺めまわし、遊び、いざどこかに置いておこうという段階になって、自分で苦労して作ったそれを「どこ」に置いていたらいいかがわからなくなってしまったのです。
確か、その辺りに放置していたように思います。おもちゃ箱でもなく、テレビの上でもなく、それをどこに置いておいても何か違うような気がして、リビングのテーブルが定位置だったような記憶があります。
物心ついて模型を始めてみた時も違和感は消えないままでした。
HGのZだったかと記憶していますが、それをどこにおいてもしっくりこずに箱にいつまでもしまっていたのです。
言葉にすれば「なんでお前がそこにいるんだ」と。
数が増え、ただ漫然と棚に飾られている模型は見事におもちゃとしてそこにあり、自分が感じていた金属の質感やヒーロー然とした振る舞いは消え、安っぽいものに見えてしまったのです。
色々作るようになってようやく原因がはっきりしてきたのですが、自分が感じていた違和感の正体とは「物語性の欠如」でした。
世に出されたものにはちゃんと「魅せ方、順序、物語」があり、立体平面にかかわらずそれに則って眼前に現れます。
自室で「ただ」陳列されたものに対しては「魅せ方」の外から視線を送ることになり、それが興ざめさせる原因だったのです。
それに従って言えば、幼い頃のβカプセルは科特隊の制服に収まっているのが一番都合がよかったのです。
ようやくそれに気づき、ベースを創ったりジオラマ化してみた時になんとしっくりきたことか。 或いは360度から魅せる荒川直人氏のジオラマを見た時に一つ瓦解する感覚があったのです。これなら部屋にあってもいいじゃん! と。
どれほど精密に作られたものでも「魅せ方」の範疇から脱してしまうととても陳腐に見えてしまう。だからこそ自分の作るものではそういった点は気をつけたら楽しいよね、俺。という感じなのです。
若干の脱線を挟みますが、人は物語についてくるといいます。 物語、お話があり、それが優れているからこそ他の要素にしっかり導入できるのだろうと。
たった一言を生みだすために一万字も書き綴るライターやアルバム一つのために一冊小説を書ききる作詞家など、物語が息づいていることが肝要なのだなあとわかってきたのが最近です。
自分の手が止まるときは細部の詰めが甘いというよりはそういった物語が不足している場合があり、書くことで充填するようにはしております。
↑以上のようなことを考えながら作ったターンXはとてもしっくりきたのを覚えています。
「撮り方」については……ね!
長々と語りましたがとりあえずはここまで。